「すし」はどのようにして現在の姿になったのでしょうか?
歴史を調べてみよう。
◎寿司(すし 鮓 鮨)の世界は奥が深い世界である。
文献をあさっても本当に奥が深い。
すしの歴史は馴れずしから始まる。
紀元前三世紀頃、東南亜細亜のインドのデカン高原地方の山岳部民が中国を経て日本にやってきて稲作文化が伝えられた。
稲作文化と同様のルートで魚と米と塩で醸した「馴れずし」が伝わる。
時代は平安時代らしい。
馴れずしは保存食であり、完全に馴れるには1年もかかるらしい。
それが滋賀県、琵琶湖周辺に伝わり鮒を使った(鮒ずし)が定着。
現代でも琵琶湖周辺で作られ食べることができる。
鮒ずしを古来から馴れずしと呼んでいる。
馴れる=熟成させる。「酸シ」という名称が生まれた。
この時代の米は白米ではなく魚の腹の中に玄米を入れて、圧して蒸らしたり、飯の中に魚を馴らしていたといわれる。米は食べず、魚だけ食べていたらしい。
馴れずしは自然発酵の酸味があって、殺菌力を持っていることに気がついてから酢を直接飯に使って、兵糧米の腐敗を防ぐことを考え出した。
徳川時代になって初めて魚を熟らすのに白米飯を使ったらしい。
それまで早くて2,3ヶ月掛かって「すし」だが研究を重ねて魚を塩にまぶして一晩圧して、翌日に水気を拭き取って、精米を炊いてから冷ました飯を桶に入れて重石を置き、味が熟した頃に出して食べることを考え出した。
この方法でいくと5,6日でできた。
1596年、慶長時代になって進歩していきぐっと日数が短くなり「早ずし」とか「一夜ずし」の形式のものになってきた。それまでは「飯(いい)ずし」という名で呼ばれていた。
この早ずしは魚の身をおろして飯の熱い内に魚の腹に詰め込んで箱に入れて、重石を置いて一夜こしてから食べた。
全国的にすしが広まり、日本列島には野菜を入れたすしや、麹を入れたすし、酒、塩、魚、など土地土地によって郷土すしが作られ現代でも伝わっている。
徳川氏が天下を取ってから今日みるような「稲荷ずし」と「巻きずし」とほぼ同じ形のもので、旅行者の携帯便利食として重宝されていた。
「押しずし、箱ずし、巻きずし、蒸しずし」なども江戸や大阪に発展。
江戸時代の後期には「握りずし」が作り出されたらしい。
酢魚に酢めしをにぎりこむだけのことで握りずし誕生。重石や発酵など待つ必要がなくなった。
いろいろ説があるらしいが
文政6年、1823年に両国の与兵衛すしの華屋与兵衛が工夫して作ったとされる。
すしの発展の違いから
今は東京風と関西風など別れている。
・東京風はにぎりずし、巻きずし
・関西風は押しずし、ちらしずし
◎鮓 鮨 寿司の意味
鮓は魚を塩と米で醸し(つける)て馴らした物を意味する「馴れずし」
鮨は魚で作った塩辛である。
魚肉を微塵に刻んで塩を加えておさえた塩辛の一種。
中国では鮓と鮨が1700年前から混同されていた。
日本でも混同された。よって今日がある。
寿司は当て字である。
江戸末期の「寿(ことぶき)を司(つかさどる)」という縁起担ぎからきた。
すしの歴史がべんきょうになりました。
今日、おすしが食べれるのは昔の人が魚が好きであり、すしを愛していて工夫して作られたからである。
現代は世界中で食べられる「すし」になりましたね。
昔の人に感謝!